白磁器のような透き通った肌と憂いを帯びたまなざし。ファン・ビンビンにはどこか薄幸な印象がある。『ロスト・イン・北京』を見たのは、そんな彼女の大胆な濡れ場があると聞いたからだ。確かに、開幕からわずか20分の間に激しい性交シーンが(駅弁ファックも含め)3回も見られる。しかし、そうした下衆な興味で見始めたはずが、いつしか映画自体の歪んだ面白さに魅了されて、気づけば息もできないほど本作に見入っていた。
舞台は現代の北京。オープニングはレオン・カーフェイが娼婦を買っている場面だ。否応なく『愛人/ラマン』が想起され、この娼婦がF・ビンビンかとのっけから興奮するが、そうではない。実はカーフェイはマッサージ店の店長で、F・ビンビンはその店の従業員という設定。
ある日、彼女は店をクビになった後輩をなぐさめる内に泥酔してしまい、店で眠りこけてしまう。店長はそんな彼女を介抱しようとするが、夫に間違われて誘惑されたために、いきおいで肉体関係を交わすことになる。しかし、高層ビルの窓拭き清掃員であるF・ビンビンの夫(トン・ダーウェイ)がその現場を目撃していたことから事態は紛糾する。夫は店長に慰謝料を要求してきたのだ。
姦通の現場を窓拭き清掃員が目撃していたという筋書きは噴飯ものだが、ともかく話を先に進めたい。手切れ金を払って関係を帳消しにしたつもりだった店長。しかし、F・ビンビンの妊娠が発覚したことで物語は意外な展開を見せる。妻(エレイン・チン)との間に子供ができない店長は、F・ビンビンの子供が自分の子種だと証明されれば金で買うと提案する。
金で子供を買う店長。金のために子供を売る夫。この展開は中国人の度を越した拝金主義への手厳しい皮肉だろう。その皮肉はあまりに歪みすぎて、ほとんどブラックコメディにさえ思える。
だが、本作はコメディと呼ぶにはあまりに痛々しい。作品の背景として切り取られるのは北京の急激な経済成長を象徴する高層ビルの数々。経済的な豊かさと引き換えに、北京に生きる人々は人間性を失っていく。高層ビルの屋上で子供を金で売買する相談を交わす店長と夫。その側で一人の女性がふいに姿を消すのは、そうした人間性の喪失に対する巧みな暗喩になっている。
F・ビンビンと夫。店長とその妻。『ロスト・イン・北京』は、ほぼこの四人の愛憎劇によって展開するが、忌憚なく申せば彼らにはまったく好感が持てない。
F・ビンビンの夫は店長の脅迫に失敗すると、次は店長の妻を脅しにかかる。妻を凌辱された男と夫の浮気を告白された女。言わば、この二人は間接的な被害者だ。店長への恨みを抱えた二人は、彼への復讐として逢瀬を重ねる。もちろんそこには愛情など微塵もない。鬱憤をなすりつけ合い、傷をなめ合う負け犬どうしの交尾にすぎない。
店長の妻の胸中は、自分を裏切った店長への恨みだけではないだろう。店長と自分の間に子供はできないのに、店長がF・ビンビンを妊娠させたということは、不妊の原因が自分にあることを仄めかす。それは女性としての劣等感を呼び覚まし、その怒りの矛先は妊娠したF・ビンビンに向けられる。
F・ビンビンの子供が自分の子種だと証明されれば金で買う、という契約書まで交わす店長。自分の血筋すら金で買えるという思い上がりは滑稽にすら感じられる。店長の血筋へのこだわりは、中国人(漢民族)の前近代的な「家系」への執着に対するカリカチュアだろう。
そしてヒロインであるF・ビンビンですら、男性に頼らなくては生きていけない根本的な依存体質として描かれる。
貧困層の富裕層への妬み。金で人間性を売る下劣さ。金で何でも解決できるという思い込み。醸造されるどす黒い嫉妬。ダメ男との共依存。登場人物たちが放つ腐臭が作中に充満し、観客は思わず窒息しそうになるほどだ。
しかし、現代人の醜さ/愚かさを具現化する彼らを、僕ら観客ははたして断罪できるのだろうか。先に僕は、登場人物たちにまったく好感を抱けない、と書いた。それは、もしかすると近親憎悪なのかもしれない。人間性を喪失した登場人物たちは、あたかも僕自身を照射する鏡なのかもしれない。
僕ら観客もまた、くすぶった日常を送る内に知らず知らず人間性を切り売りしてはいないか。『ロスト・イン・北京』のそうした問いかけにはっと気づいて、僕は思わず息を呑む。
ロスト・イン・北京(2007・中国)
●監督/リー・ユー
●脚本/リー・ユー ファン・リー
●出演/ファン・ビンビン レオン・カーフェイ トン・ダーウェイ エレイン・チン ツアン・メイホイツ
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